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292日目「林忠彦写真展〜紫煙と文士たち〜(たばこと塩の博物館)」渋谷

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姪っ子メグ 芥川賞受賞の記者会見での田中慎弥さんの不機嫌ぶりが面白かったわねぇ。
キミオン叔父 シャーリー・マックレーンの言葉を引用して、「まあ四度も落とされたけど、もらっといてやるか」とかね。「こんな会見早く終わりましょうや」とかね。もうひとりの受賞者が苦笑していたけど、文藝春秋の進行担当者は、はらはらしたのかな。
でもこの「不機嫌」がおおきく取り上げられたおかげで、『共喰い』の初版部数が膨らんだみたいで、拍手してるんじゃないの(笑)
「こんな馬鹿馬鹿しい小説を読まされるのにつきあう体力はないから、もう俺は降りるよ」みたいなことを言った石原慎太郎へのあてつけがあるようだけど。でもこの人は山口生まれで、4歳で父を亡くして、その後母と二人住まい。20歳ごろから書き始めて、30歳でデヴュー。その間、アルバイトもいっさいせずに、一日も執筆を欠かしたことはなかった、という伝説の持ち主。
ついでに、必要がないから、PCも携帯も持っていない、という伝説。あたしまだだけど、おじさん読んだの?
文庫になっている『切れた鎖』だけね。究極のひきこもりのような位置から、妄想がどんどん膨らんで、小説の形式まで壊していくような特異な「私小説」といえるかな。でもこの数年間の評価は凄いよ。05年の「冷たい水の羊」で新潮新人賞、08年に「蛹」で川端康成文学賞を最年少受賞、作品集『切れた鎖』で三島由紀夫賞、そして五度目のノミネートだったけど、ついに芥川賞。まあ、でもやはり興味あるのは、デヴューまでひたすらこもっての十年間のことだね。
でも、「文士」っていろんな変わり者がいて当たり前だと思うから、いいんじゃないかな田中慎弥。

「文士」といえば、文士のスナップ写真の第一人者とされた林忠彦の「紫煙と文士たち展」が、たばこと塩の博物館で。林忠彦も田中慎弥と同じ山口の写真館の長男坊。戦前は報道写真家だったけど、1946年に織田作之助を銀座のバーの「ルパン」の狭いカウンターで撮ったんだけど、それが「文士」ポートレートのはじまりかな。そのあと、あまりにも有名な太宰治の同じ「ルパン」でスツールにあぐらをかいた太宰治、それから坂口安吾の仕事場でのギョロっとした風貌、もうそれからは文士ポートレートといえば、林忠彦ということになった。
今は違うんでしょうけど、この半世紀をとってみても「文士」に煙草はつきものよねぇ。ほとんどは両切りのピースみたいだったけど。中にはホープやしんせいや外国煙草もあるけど。
戦後の「無頼派」がスタートだったけど、そのなかで一番見入ってしまったのは、田中英光。180cmを超える大男で早稲田在学中にロスオリンピックのボート選手で出場。それが『オリンポスの果実』という名作になった。太宰に心酔して弟子入りしたけど、太宰の入水自殺にショックを受ける。で、睡眠薬中毒になり、暴飲をするようにもなり、彼からのリクエストで太宰と同じようにバーを舞台に林忠彦は写真を撮った。そのすぐあとに、太宰治の墓前で、手首を切って自殺。林忠彦はその後、バーでポートレートを撮るのはやめることにしたらしい。
今回は何冊かの写真集から「紫煙の文士」をピックアップしているけど、その「文士」とのエピソードがとても面白い。そうよね、スタジオで撮るわけじゃないんだから、やっぱりその人とのつきあいね。長い時間をかけて、ようやく撮れた一枚もあるだろうし、一期一会で勝負して撮ったものもあるだろうし。ほとんどの人とは、人生のつきあいをしている。もちろん、日本の写真界の超重鎮だけど、撮り始めたころは若いものね。どこかで気難しそうな文士たちに愛されるような資質があったんでしょうね。
今回は60人ぐらいの錚々たる文士だけど、やっぱりその写真を見ながら、その横の資料プレートで何歳で没した人なのかをついつい見ちゃうんだ。ああ、俺はもうこの人の年を越えちゃったのか、と(笑)。
林忠彦の最後の仕事は『東海道』。癌を患っておられて半身不随になっていたのね。で四男の林義勝と共同して、写真集に編み上げた。1990年、林忠彦の個展のオープニングセミナーで倒れて、お亡くなりになった。今回の文士たちのなかの大半はすでに亡くなっておられる。あちらの世界でも、たぶん紫煙をくゆらせている文士たちに、やあと言ってお会いされるのかしら。この頃は、なかなか、紫煙をくゆらせる場所なんてないんですよって、苦笑されながら。

 


杓子定規(豪雪をめぐる事件のなんだかな度80点)

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除雪機飲酒事故、「村議続けて」被害者の父嘆願 <iframe class="twitter-share-button twitter-count-horizontal" style="width: 130px; height: 20px;" title="WEB&#65533;T&#65533;C&#65533;g&#65533;&#65533;&#65533;&#65533;Twitter: &#65533;c&#65533;C&#65533;[&#65533;g&#65533;{&#65533;^&#65533;&#65533;" src="http://platform0.twitter.com/widgets/tweet_button.html?_=1328060380753&count=horizontal&id=twitter_tweet_button_0&lang=ja&original_referer=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120124-OYT1T00213.htm&text=%E9%99%A4%E9%9B%AA%E6%A9%9F%E9%A3%B2%E9%85%92%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%91%E8%AD%B0%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%A6%E3%80%8D%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AE%E7%88%B6%E5%98%86%E9%A1%98%20%3A%20%E7%A4%BE%E4%BC%9A%20%3A%20YOMIURI%20ONLINE%EF%BC%88%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%96%B0%E8%81%9E%EF%BC%89&url=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120124-OYT1T00213.htm%3Ffrom%3Dtw" frameborder="0" scrolling="no"></iframe> <iframe class="hatena-bookmark-button-frame" style="width: 50px; height: 20px;" title="このエントリーをはてなブックマークに追加" frameborder="0" scrolling="no" width="50" height="20"></iframe> <iframe style="border-width: initial; border-color: initial; overflow-x: hidden; overflow-y: hidden; width: 100px; height: 21px; border-style: none;" src="http://www.facebook.com/plugins/like.php?href=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120124-OYT1T00213.htm&layout=button_count&show_faces=false&width=90&action=recommend&colorscheme=light&height=21" frameborder="0" scrolling="no"></iframe> <iframe style="border-width: initial; border-color: initial; overflow-x: hidden; overflow-y: hidden; width: 80px; height: 20px; border-style: none;" src="http://share.gree.jp/share?url=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120124-OYT1T00213.htm&type=2&height=17" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe> 携帯に送る ヘルプ  

 山形県戸沢村の富樫義人村議(56)が15日夜、飲酒後に除雪機を運転して衝突事故を起こし、車の男性が軽傷を負った問題で、男性の父親が村に対し、富樫村議に議員を辞職させないよう嘆願する電子メールを送っていたことがわかった。

 

 村によると、男性の父親はメールで、「村民の皆様が許すなら、(富樫村議が)辞職せず職務を全うすることで、償いに代えさせて頂けたらと、お願い申し上げます」などと訴えているという。

 村関係者によると、富樫村議は30年以上の間、自宅前の通学路の除雪作業を行ってきたという。富樫村議は、事故翌日の16日に議員の辞職願を提出。村議会は25日、全員協議会を開催し、富樫村議に事情説明を求め、今後の対応を決める。

 今回のメールの扱いについて、村では「厳しい対応をしないと、飲酒運転自体を認めてしまうことにもなってしまう」などと苦慮している。

(2012年1月24日14時59分  読売新聞)

今年の豪雪で、除雪作業の被害が相次いでいる。
この30年間、地元の人のためにせっせと除雪をしてこられたのであろう村議のお話は、なんかやりきれないものがある。
どれぐらいお酒が入ってるのかは知らないが、あるいはこの除雪機がどれほどの危険度や習熟度が要求されるのかは知らないが、 みんなのためによっこらっしょ!と除雪に向かったのであろう。
怪我をした人も軽症なら、その家族からの嘆願書であるというなら、「まあ、これからはやっぱ酒飲んでるとまずいからよ、気をつけてけれや!」とかなんとかで収まる話ではないか、と思う。
法令遵守もいいが、杓子定規の規則適用は、それこそただでこそ重荷な除雪作業をますます気分的に滅入らせるだけだ。 

4時間/テオ・アンゲロプレス(映画監督)/76歳

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<訃報>テオ・アンゲロプロスさん76歳=ギリシャ映画監督

毎日新聞 1月25日(水)12時31分配信

   【ローマ藤原章生】AP通信によると、世界的な巨匠として知られるギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスさんが24日午後、アテネ近郊のピレウス港付近の道路を横断中、オートバイにはねられて頭を強く打ち、運ばれた病院で死亡した。76歳だった。オートバイを運転していたのは非番の警察官で、重傷を負った。

 アンゲロプロスさんは事故前まで、港近くに設けた、新作映画「ジ・アザー・シー(もう一つの海)」のセットにいた。新作は大恐慌前の1928年のギリシャが舞台で、ブレヒト原作の「三文オペラ」を演じる劇団がさまざまな障害から劇場公演ができず、路上で演じ始めると大勢が集まり、最後はオペラになるという風刺劇。「2012年中に完成させたい」と話していた。

 68年に短編「放送」で映画製作をはじめ、長編3作目の「旅芸人の記録」(75年)でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。

 人間の営みを自然と歴史の中に置き、哲学的に洞察。一場面が極めて長い「長回し」が特徴で、登場人物がカメラに向かって独白したり、場面途中で時代が跳躍したりするなど斬新な手法を駆使した。

 作品は時に難解と評されたが、80年「アレクサンダー大王」でベネチア国際映画祭金獅子賞、98年「永遠と一日」でカンヌのパルムドールなど国際映画祭の最高賞を受賞。他にも「シテール島への船出」(83年)、「こうのとり、たちずさんで」(91年)、「ユリシーズの瞳」(95年)など、美しい映像で深い思索を誘い、高い評価を受けた。


テオ・アンゲロプレスの作品では、やはり『旅芸人の記録』(75)を岩波ホールで観た記憶がある。79年のことだった。
上映時間はなんと4時間。ギリシャ神話をベースにしながら、旅芸人がギリシャの近代史をひもといていくのだが、なんとも退屈な映画であった。
観客と我慢較べのような長回しが延々と続き、セリフはほとんどない。
ひとつのシーンで時制が変わったりする。
1967年にギリシャは軍事独裁政権となったが、この作品にはギリシャ右派政権への批評と共産主義ユートピアが垣間見える。
そうかといってギリシャ神話もギリシャの近代史も、表層的にしか知らない僕にとっては、彼の作品の特徴のひとつでもある曇天の空のように、暗欝とした気分が拡がるだけだった。
それなのに、その後もこの退屈な作品のいくつかのシーンが記憶から離れないのだ。
それから30年ほど、年間数百本の映画を見続けてきたから、数だけは1万本を超えていることになる。
しかし、映画の断片にしても、まざまざと浮かんでくる作品というのは、数%しかないのではないか。
『旅芸人の記録』のたぶん数分の1は眠気に誘われて、映画館で熟睡していたはずだ。
けれども、その後出会った多くの監督たちで好きになった人たちのシーンのいくつかの、元をたどっていけば、『旅芸人の記録』と重なってくるような気がしてしょうがないのである・・・合掌!

3.11映画(なにかと影響力を持つ岩井俊二監督の本気度80点)

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岩井俊二監督「宇宙戦艦ヤマト」実写版企画を即降板させられた驚きの理由とは! «前のニュース 次のニュース» 2012年1月26日 12時22分 岩井俊二監督「宇宙戦艦ヤマト」実写版企画を即降板させられた驚きの理由とは! 岩井俊二監督 拡大 画像拡大

 [シネマトゥデイ映画ニュース] 今月24日、渋谷ユーロスペースにて、岩井俊二監督の「『番犬は庭を守る』前夜祭出版記念トークライブ」が開催され、約10年のときを経て発表された本作の誕生秘話が、岩井監督によって明かされた。

「『番犬は庭を守る』は当初映画の企画として立ち上がったんですが、あまりにも壮大になりすぎて、企画がボツになったんです」と話した岩井監督。「ボツというとなんだか悲しく聞こえるかもしれませんが、監督の仕事はボツになることが多いんですよ」と明かし、「宇宙戦艦ヤマト」の実写版企画もオファーが来ていたことも告白した。

 客席からは驚きの声が上がったが、「ガミラスがなぜドイツ兵なのかを追求し、話のど真ん中に皇室を出したりしてしまったもので、僕はまたたく間に降板となりました」と、仰天のエピソードを明かして観客を爆笑させていた。

 また、以前、制作中止となった『あずみ』に関しても、「できあがった脚本の9割がオリジナルだった」「『あずみとは、“この身をあずける”という名前の由来がある』とか原作者ですら考えたことないエピソードを入れようとしていたんですが……」と、これまで語られることのなかったウラ話が続々と飛び出し、岩井ファンにはたまらないトークショーとなった。
 
10年ぶりに復活した本作については、「原発を見学したり、リサーチを重ねた作品でした」と話し、「人間が作り出した危険なものを、みんなに考えてもらおうと、問題提起するはずだった小説だったのに、ぼくはお蔵入りにして放置してしまっていた。福島第一原発が起きたあとは、誰に対してでもなく、ただ申し訳ないという気持ちでした」と当時のショックを振り返った。「これは早いうちに出さねば」という作家としての情熱が、監督を突き動かし、出版となった。

「2011年は、311と向き合う腹をくくっていた」という監督の言葉どおり、昨年は、「脱原発」を堂々と宣言し、松田美由紀らとともに、環境問題を考える「ロックの会」を結成した。今年は、本作の出版から始まり、3月にはドキュメンタリー映画『friends after 3.11』の公開も控えている。最高のスタートを切った岩井俊二に、今年も大いに期待したい。(編集部:森田真帆)

「番犬は庭を守る」は、幻冬舎より、2012年1月27日に全国書店にて税込み1,470円で発売

岩井俊二監督は、どうやら本気である。
東北にゆかりがある人だが、3.11の直後からカメラを回し始めた。
『宇宙戦艦ヤマト』にしても『あずみ』にしても、その実写版の情けなさといったら悲しいものがあった。
岩井監督にオファーが来てたというのは驚きなのだが、まあ実現性は薄かったのではないか。

僕は岩井監督だとなんといっても『リリィシュシュのすべて』である。小林武史のスコアも好きで、あるいはこのときだけのバンドのサリュイも好きで、ビデオではあるが10回は見ている。
デヴューの頃の蒼井優もとてもよかった。

これから日本でも原発=3.11を直接にあるいは間接に題材としたドラマやドキュメント作品がごまんと出るだろう。どれだけ出ても出過ぎることはない。それだけの現在進行形の体験である。 

 

293日目「時代の肖像/タカオカ邦彦写真展(町田市民文学館ことばらんど)」町田市

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姪っ子メグ 今日は久しぶりに町田をお散歩。このあたりに来るのは、白洲夫妻の武相荘に来て以来かしら。
キミオン叔父 かもね。さっき食べた町田大勝軒の大盛り肉マシラーメン、さすがにこたえたなあ。なんか二郎のラーメンに似ていた。
おじさん、すぐ年甲斐もなく大盛り頼むんだから。普通盛でも量が多いですよと、断り書きがしてあるのに(笑)
いやしいのかなぁ。ラーメンにも一期一会で向かっている・・・、そんないいもんじゃないけど、ツケメンなんかだと、いつも麺は600gはチャレンジしちゃうからな。炭水化物太り。
まあ、そのあと、公園で坂道をかなり歩いたから、いいんじゃない。
ここの町田市立国際版画美術館は、国内では珍しい版画専門美術館。ときどき面白い催しをやってるからね。1987年開館。22000点ぐらい版画があるらしいな。
今日も新しく収蔵された500点から主要な70点が陳列されていたね。歌川広重の『東海道五十三次』『富士三十六景』からもチラホラ。最近あちこちで見かける大正から昭和に活躍した木版画家川瀬巴水の『三菱深川別邸の図』とか。これ、三菱本社が外国人への贈呈用に深川の岩崎家別邸を版画にすることを企画し鏑木清方に依頼、で清方が巴水を起用したんですって。
オジサンの好きなルオーも購入された。『流れ星のサーカス』なんかいいだろ。まさか、町田で出くわすなんて思ってもみなかったよ。


「町田市民文学館ことばらんど」は初めて来たね。町田ゆかりの文学者たちの作品が揃えてあるんだけど。古くは北村透谷。町田の民権家の娘と結婚したのね。あ、おじさんの好きな画家の蕗谷虹児も玉川学園のほうにいたんだ。遠藤周作の「狐狸庵」もそのあたりか。
ミステリーファンから言えば、航空ミステリーのかたわら漫画『ちかいの魔球』の原作者でもある福本和也に、高踏ミステリーの日影丈吉、剣豪小説の峰隆一郎もそうだし、「のらくろ」連載した滑稽漫画の元祖である田河水泡もそうか。
今日、ここに来たのはタカオカ邦彦写真展のため。現代作家中心の肖像写真だけど、この前おじさんと行った林忠彦巨匠のお弟子さんだもんね。
文学者や文化人が90人か。それぞれの撮影の注釈が小ブックになっていて、面白かった。これ各人が1点展示なんだけどさ、二人だけ複数あったの気づいた?
えーとねぇ、ひとりはポスターにもなっている中島らもさんでしょ。もうひとりは誰だっけ?
森村誠一。6年前ぐらいに雑誌の取材で撮影したらしくて、それからいろんな取材でポートレイトの仕事が依頼されるきっかけになったらしい。
お師匠さんの林さんの時代は、戦争直後からのポートレートが多かったから、ほとんどの人がお亡くなりになっている。タカオカさんは最近の仕事が多いから、存命中の人がほとんど。でもお亡くなりになった人ももちろんいて、早乙女貢、遠藤周作、澤野久雄、阿久悠、池辺良、忌野清志郎、森田芳光、中島らも、高橋清(彫刻家)、谷恒生さんといった面々ね。
写真を見たことがない人もいてさ、面白かったよ。たとえば、谷川俊太郎の子どもで作曲家の谷川賢作さん、なんか顔のイメージがつかめなくて、 で見たらオヤジさん、そっくりじゃんって。
あたし、絵本作家の五味太郎さんってさ、もっとおじいちゃんかと思っていたの。450冊も著作があるもんねぇ。でもなかなかイケメンおじさんだと(笑) 
タカオカさんの写真集で(自費出版かもしれないけど)、『家の光』なんかでグラビア連載していた農家の人たちの仕事風景の写真集が置いてあったけどさ、これとっても良かったよ。『晴耕雨読』ってタイトルだったかな。でもまあ、この中にきっと、東北震災で被害にあわれた農家の人たちも何人もいるんだろうなあ、と少しシミジミしちゃったけどね。 


 

 

関係おまへん(あまりにも大阪人のわが道を行く度80点)

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御堂筋でお願いしたら…自転車降りた人6%だけ <iframe class="twitter-share-button twitter-count-horizontal" style="width: 130px; height: 20px;" title="WEB&#65533;T&#65533;C&#65533;g&#65533;&#65533;&#65533;&#65533;Twitter: &#65533;c&#65533;C&#65533;[&#65533;g&#65533;{&#65533;^&#65533;&#65533;" src="http://platform0.twitter.com/widgets/tweet_button.html?_=1328062076573&count=horizontal&id=twitter_tweet_button_0&lang=ja&original_referer=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120129-OYT1T00103.htm&text=%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B%E3%81%A7%E3%81%8A%E9%A1%98%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E2%80%A6%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E9%99%8D%E3%82%8A%E3%81%9F%E4%BA%BA%EF%BC%96%EF%BC%85%E3%81%A0%E3%81%91%20%3A%20%E7%A4%BE%E4%BC%9A%20%3A%20YOMIURI%20ONLINE%EF%BC%88%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%96%B0%E8%81%9E%EF%BC%89&url=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120129-OYT1T00103.htm%3Ffrom%3Dtw" frameborder="0" scrolling="no"></iframe> <iframe class="hatena-bookmark-button-frame" style="width: 50px; height: 20px;" title="このエントリーをはてなブックマークに追加" frameborder="0" scrolling="no" width="50" height="20"></iframe> <iframe style="border-width: initial; border-color: initial; overflow-x: hidden; overflow-y: hidden; width: 100px; height: 21px; border-style: none;" src="http://www.facebook.com/plugins/like.php?href=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120129-OYT1T00103.htm&layout=button_count&show_faces=false&width=90&action=recommend&colorscheme=light&height=21" frameborder="0" scrolling="no"></iframe> <iframe style="border-width: initial; border-color: initial; overflow-x: hidden; overflow-y: hidden; width: 80px; height: 20px; border-style: none;" src="http://share.gree.jp/share?url=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fnews%2F20120129-OYT1T00103.htm&type=2&height=17" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe> 携帯に送る ヘルプ   大阪市中央区の御堂筋で歩行者の間をすり抜けて走る自転車

 大阪市が昨秋、メーンストリート・御堂筋(国道25号)で歩行者との接触事故を防ごうと、自転車利用者に歩道を押して歩くよう呼びかけた社会実験で、自転車を降りた人は100人あたり6人にとどまったことがわかった。

 自転車専用レーン設置の是非を巡って歩行者と自転車の共存を試みたものの、マナー頼みの限界を露呈した格好だ。

 自転車による歩行者との接触事故は年々増え、大阪府内では2010年には233件と10年前の5倍近くに上った。

 これを背景に、御堂筋では車道の側道部分について自転車専用レーン化を求める声が地元で出ている。しかし、渋滞が多発する恐れがあり、市は自転車のマナー向上で問題解決が可能かを探るために社会実験を実施。昨年9月下旬から約1か月間、淀屋橋―難波西口間(3キロ)で職員らが啓発ビラ10万枚を配り、自転車で走行中の人たちに押し歩きを求めた。

 その結果、要請に応じたのは1649人中106人(6・4%)だけ。職員の前では降りても離れると再び乗る姿も目立ったという。

(2012年1月29日08時46分  読売新聞)

ははは。
大阪人ですなぁ。
これ、全国で同じような調査をしてほしい。
県民性が出るのではないか。
東京でも地区によりかもしれない。
傘を差しながら、子供を自転車の全部に座らせながら、歩道をすごい勢いで突っ走っている女の人にぶつけられたこともある。
まあ、通常は、職員が啓発ビラを撒きながらというのだから、その時ぐらいは自転車から下りるのが普通だと思うが、畏るべし大阪人。 

迫力/石岡瑛子(アートディレクター)/73歳

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国際的アートディレクター、石岡瑛子さん死去

読売新聞 1月27日(金)11時29分配信

 【ニューヨーク=柳沢亨之】AP通信などによると、国際的なアートディレクターの石岡瑛子(いしおか・えいこ)さんが21日、東京都内で、膵臓(すいぞう)がんのため、死去した。

 73歳。

 1961年、東京芸大卒。66年、資生堂のCM用に前田美波里さんのポスターを制作。さらに前衛的な「パルコ」の広告を主導した。

 日米両国の舞台や映画など幅広い分野で活躍し、87年にジャズトランペッター、マイルス・デイビスの作品「TUTU」のジャケットデザインで日本人女性初の米グラミー賞を受賞。93年にはフランシス・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」の衣装で米アカデミー賞を受賞した。現在ニューヨークで上演中のミュージカル「スパイダーマン」の衣装も担当していた。

石岡瑛子さんは1938年生まれだから、10数歳上なんだが、日本のアートディレクターでこの人ほど「迫力」を感じた人はいなかった。
最初の出会いは、資生堂時代の前田美波里のポスターである。興奮したユーザーにどんどん剥がされて話題になった。田舎の学校で、僕もこっそりと薬局から剥がしたひとりである。
その後は、70年代のパルコの「女の時代」を先取りした数々の宣言ポスターが時代を引っ張って行った。
角川の「野生時代」の表紙も彼女のディレクションだったし、ミヤケ・イッセイとのコラボレーションや、彼女が好きだったレニ・リーフェンシュタールの西武劇場での「ヌバ展」なども懐かしい。
フェイ・ダナウェイのCMもあった。
けれども、彼女の本当の「闘い」はこれからである。
日本の枠から飛び出して、あるいは女性という枠から飛び出して、彼女が必要とされるその時点での世界で一番ホットな場所に、単独で闘いに出向いたのだ。
それがブックデザインであれ、スポーツのコスチュームデザインであれ、舞台のセットデザインであれ、レコードジャケットのディレクションであれ、映画のアートディレクションであれ、世界が彼女を必要としたし、彼女はそこで闘った。
たとえば、映画の世界だけをとってみても、日本ではもちろんワダ・エミと石岡瑛子ということになるのだが、アカデミー賞を取ったコッポラの『ドラキュラ』のコスチュームデザインにはぶったまげたものだ。
そして『ザ・セル』(00)『落下の王国』(06)と、僕の大好きなターセム監督とのコラボが続いた。
これは、石岡瑛子のアートディレクション、コスチューム・デザインを生かしたいがために撮った映画ではないかと思えたほどだ。
そんな彼女を指名したのが、北京オリンピックの総合演出をしたチェン・カイコーだ。
世界中の目をくぎ付けにしたオープニングのコスチュームデザインは、石岡瑛子だ。
なんら妥協をせずに、アートの前線で闘った不屈の精神に・・・合掌!

海外転送(いつのまにか時代においていかれる事件度80点)

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TV番組の海外転送、2業者に賠償命令 知財高裁判決

 日本のテレビ番組をインターネットを経由して海外在住者向けに転送するサービスをめぐる2件の訴訟の差し戻し後の控訴審判決が31日、知財高裁であった。サービスの形態そのものは最高裁で「テレビ局の著作権を侵害する」と認められており、飯村敏明裁判長は改めて二つの業者が支払う賠償額などを決めた。

 判決は、番組の放送回数や視聴率、サービスの契約数などを考慮して損害額を計算。「ロクラク」の名称でサービスを展開する「日本デジタル家電」(浜松市)に対し、NHKと東京、静岡の民放9社に計1570万円の支払いを命じた。また、「まねきTV」の名称でサービスを展開する「永野商店」(東京都千代田区)に対しては、NHKと在京の民放5社に計約160万円の支払いを命じた。さらに、いずれのサービスも差し止めを認めた。

 ロクラクについては、業者による機器の管理状況がはっきりしていなかったため、最高裁が違法性を認めた形態に当てはまるかも改めて争われたが、判決は「業者の管理・支配下で複製しており、著作権を侵害する」と認めた。

この裁判も長期化した。
当初は、ユニークなサービスのひとつで、ちょっと放送会社の盲点をつくようなところもあり、注目はしていた。
けれども、問題は「著作権」だとしても、もうここ数年ですっかりストリーミング技術やサービスが増えたため、日本の中での争いごとなどどうでもいいような事態にはなっている。
実は、この「事件」には僕の知人も少しからんだりもしている。
どっちもどっちのところもあるのだが、特に電波利権に守られているテレビ局の連中たちに、「知財」がどうのとか言われると腹が立つこともある。
もうビジネスモデルもずっと先に進んでいて、そのうちこういう原始的な争いごともありましたなあと、懐かしがられるようにもなりそうだ。 


強制収容所/石元泰博(写真家)/90歳

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<訃報>石元泰博さん死去90歳…写真家、斬新な構図で脚光

毎日新聞 2月6日(月)13時32分配信

 桂離宮などの伝統建築や都市の風景をモダンな構図と深みのある階調でとらえ、戦後の写真表現に影響を与えた写真家で文化功労者の石元泰博(いしもと・やすひろ)さんが6日、亡くなった。90歳。

 米国サンフランシスコ生まれ。第二次世界大戦が始まってコロラドの日系人収容所に収容されるが、ここで写真の技術を学んだ。

 53年、アメリカ国籍の立場で来日。翌年には東京の画廊で日本初個展を果たし、57年、第1回日本写真批評家協会作家賞受賞。60年、建築家・丹下健三らとの共著「桂 日本建築における伝統と創造」(日本語版と英語版)を刊行。京都・桂離宮の庭石などを斬新な構図でとらえた作品が高く評価され、脚光を浴びた。

 写真集「シカゴ、シカゴ」で69年度毎日芸術賞を受賞。同年日本国籍を取得し、以後、日本を拠点に活動した。

 変わりゆく戦後日本の風景をシャープな構図でとらえたほか、伊勢神宮や東寺の両界曼荼羅の撮影では伝統文化へのアプローチに新たな地平を切り開いた。78年芸術選奨文部大臣賞、96年文化功労者顕彰。東京造形大教授も務めた。

石元泰博の伝説の『シカゴ、シガゴ』にしても『桂離宮』にしても『伊勢神宮』にしても、大判の分厚い写真集だが、古本屋でも高くて、仕方がないので図書館で何度かため息をつきながらじっくりと見たものだ。
1921年生まれ、3歳で父の出身の高知に戻るが、またアメリカに戻り、第二次世界大戦では強制収用所に入ることになる。
世界的彫刻家であるイサム・ノグチや、チャップリンの秘書をつとめた高野虎吉や、『スタートレック』でお馴染みのジョージ・タケイや、収容所の記録写真を撮り続けた宮武東洋や、ジャニーズ事務所で芸能界を制覇したジャニー喜多川、メリー喜多川や、孤高のストリートアーチストでドキュメント映画『ミリキタニの猫』に描かれたジミー・ミリキタニや・・・同じような世代のアメリカ国籍の日本の若者はいたのだが、石元泰博は収容所時代に写真に目覚めたのかも知れないが、その後バウハウスの流れを汲むシカゴのインスティテュード・オブ・デザインで建築などを学びながら、モダンフォトグラファーとして53年に日本の土を踏むことになる。
僕の生まれた年だ。
この人の完成度の高い叙情を排した鋭利な構図には、いつも驚かされる。
『桂離宮』にしても『伊勢神宮』にしても、特別に彼のためだけに撮影の舞台が用意されたわけではない。
一般の観光客に混じり、あるいは20年に一度の遷宮の何日間か報道陣に公開される舞台で多くのカメラマンたちのなかの一人として、短い時間の中で、瞬間のように啓示を受けた構図で対象を切り取り、あの歴史に残る写真集が出来たのである。
その後、何度も彼の作品展などに出かけたが、最後の作品集は『シブヤ・シブヤ』であったか。ノーファインダーで渋谷に立ち止まりながら、若者の生態を見事に描写している老齢の石元泰博!
『シカゴ、シカゴ』で始まった彼の仕事は、『シブヤ・シブヤ』で幕を閉じたことになる・・・合掌!

 

見事なキャラ/千石正一(動物学者)/62歳

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千石先生が死去 「わくわく動物ランド」「どうぶつ奇想天外!」で人気

スポニチアネックス 2月8日(水)12時16分配信

 テレビの動物番組で親しまれた爬虫類両生類学者の千石正一(せんごく・しょういち)さんが7日午後1時25分、千葉県松戸市の病院で死去した。62歳。千葉県出身。

 TBS系のテレビ番組「わくわく動物ランド」「どうぶつ奇想天外!」に出演、「千石先生」と親しまれた。自然環境研究センターの研究主幹を務めた。

動物番組は見るのが好きだ。
ドキュメントとしてはアニマルプラネッツやBBC製作の番組などがあるが、日本では圧倒的にNHKに軍配があがる。
「ダーウィンが来た」などもよく大人も子どもも楽しめる番組である。
民放では古い話だが「野生の王国」が好きだった。 
63年から90年まで続いた自社製作の長寿番組であった。
千石先生が登場した「わくわく動物ランド」や「どうぶつ奇想天外!」もなかなか工夫された番組であったが、現在は海外フォルムの使いまわしか、芸人の珍獣などの発見(やらせ)か、 なんでもかんでも可愛い動物の赤ちゃんを見せるか、たぶん経費節減のためもあって、各地の動物園全面協力というパターンばかりとなっており、食傷気味だ。
千石先生は、両生類や爬虫類がお得意領域であったが、テレビ局の無理難題の注文にもよ答えていた、というより彼自身の好奇心が先に立っていたのかもしれない。
若い時動物切手のコレクターであり、寺山修司の「天井桟敷」の劇団員であったこともある。
動物学者に嫌なやつはいないと僕は勝手に思っているが、千石先生のキャラも見事であったと思っている・・・合掌! 

ミラボー橋/芦野宏(シャンソン歌手)/87歳

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芦野宏さん死去 紅白10年連続出場 シャンソンブームをけん引

スポニチアネックス 2月7日(火)11時45分配信

 シャンソン歌手で日本シャンソン協会会長の芦野宏(あしの・ひろし、本名羽鳥広=はとり・ひろし)さんが4日午前8時57分、間質性肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。87歳。

 東京都出身。葬儀・告別式は親族で済ませた。後日お別れの会を開く。

 東京芸大声楽科を卒業後、1953年、NHKラジオ番組に出演しシャンソン歌手としてデビュー。歌や司会、ドラマ出演などラジオ、テレビで幅広く活躍した。NHK紅白歌合戦に10年連続で出場、故越路吹雪さんらとともにシャンソンブームをけん引した。「ラ・メール」「ミラボー橋」「幸福を売る男」などがヒットした。

 90年紫綬褒章、96年勲四等旭日小綬章。著書に「パリの空の下」など。

芦野宏を知ったのは、紅白歌合戦であった。
デヴューは僕の生まれた年である1953年であるが、55年から10年連続紅白歌合戦に出ていた。
ということは僕の小学生の時までなのだが、その頃まではまだ僕も家で毎年紅白歌合戦を見ていたのである。
芦野宏が出てくると、うちの母などはぞっこん聞き惚れていた。
芦野宏は56年には早くもパリのオランピア劇場でアジア人初の出演をしている。
日本のシャンソンブームは50年代後半からだが、立役者は越路吹雪、石井好子、そして芦野宏だと思う。
シャンソン協会の石井好子のあとの二代目理事長を引き受けたが、95年には渋川にシャンソン館を創設し、もちろん初代館長となっている。
こちらはまだ行ってないので、立ち寄って彼の「ミラボー橋」なんかを久しぶりに聞いてみたいものである・・・合掌! 

294日目「原宏 デザインワークを通して見えてくるもの(東京国立近代美術館)」竹橋

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姪っ子メグ おじさん、事故ったんだって?大丈夫なの?
キミオン叔父 ああ、10日ほど前ね。おばさんと河口湖に行ったの。日帰り温泉のクーポンがあってね。で、河口湖あたりで夜8時から冬の花火があるわけ。それを見てこようと。
道が凍結してたわけ?
途中まではスイスイだったんだけど、ちょっと早くインターチェンジ下りたんで、「茅葺屋根の里」みたいのがあってそこに回ろうよとオジサンが言って。おばさんはヤバイヨと言ってたんだけどね。で、河口湖あたりの道の駅の近くで、そろそろと走ってたら、ハンドルとられて道路の端の壁にズドン!エアバックが破裂して、車は前の部分が大破。
ヒエー!無事だったの?
まあ、不幸中の幸いは自損事故だったこと。それでJAFを呼んで、警察に検分をしてもらって、レッカー車で運ばれて、そのまま車は処分して、すごすごと電車を乗り継いで帰ってきたよ。
富士山見ながら温泉つかって花火見る予定が大変だったね。雪だけじゃなくて、あのあたり地震があったもんね。
そうそう、それで電車も遅れてね。それから同じ車種の車を中古で予約して、いま登録中。おばさん、代車の軽に乗ってるよ。土浦ナンバーで恥ずかしいといいながらね(笑)



近代美術館は「原弘 デザインワークを通して見えてくるもの」。この人、すごい人なんだね。
すごいというか、昭和のデザイン界のもとを作った人というか。特に装丁では、「ブックデザインの天皇」と呼ばれている。戦後の坂口安吾の『堕落論』とか、あの平凡社の『日本の美術』シリーズとか。 大型本や豪華本のベースもこの人だね。
もともと飯田市の印刷屋さんの長男なのね。1903年生まれ。それまで「図案家」と呼ばれていたグラフィックデザインの世界で、ヨーロッパのタイポグラフィーの世界を研究して、そこに日本語特有の縦書き、横書きを研究する中で、モダンなグラフィックを提示していく。
面白い時代でさ。戦前にライフ誌の最初の特約フォトグラファーであった名取洋之助が日本工房という事務所をつくる。で対外広報誌の『NIPPON』をつくり、国際観光局は『トラベル・イン・ジャパン』を発刊し、その流れがフォトとタイポを組み合わせた『FRONT』になる。もちろん、中身は軍部が協力してのガチガチの大政翼賛会雑誌だったわけだけど、原弘がレイアウトデザインをして、写真の木村伊兵衛や後には新進デザイナーの亀倉雄策さんが参加する。
戦後もこの人の仕事をあげるときりがないけど、日本デザインセンターの創設にももちろん関わっているのね。原さんは自分のお仕事を「新活版術」と言っておられるけど、「ノイエ・タイポグラフィ」つまり新しいタイポの紹介や創作、写真との組み合わせ方、そして竹尾紙店と組んで新しい印刷紙の開発まですべてに関わられた。とても理知的で、そのデザインも依頼主のことを考えながら、「俺流!」といった主張は極力おさえてやってこられた。それが圧倒的な品のよさ、理知性につながっているような。
オジサンたちもメディア製作にかかわった時期もあるけどさ、もうその頃のグラフィックデザイナーはみんな原さんの影響を受けていたよ。装丁、ポスター、パッケージ・・・お仕事は3000点以上にのぼる。で、ここ国立近代美術館が開館したのは1952年、オジサンの生まれた頃だけど、23年間にわたって、ここの展覧会ポスターなどすべてが原弘さん。まあ専属アートディレクターみたいなものだな。
もちろん、あたしなんかが近代美術館に通いだしたのはずっと後なんだけど、たぶんそのあとのアートディレクションの人たちも、完成度の高い原さんのお仕事をつねに緊張の中で意識されてきたんだろうなぁ、と。
原さんの時代と異なるのは、DTPの発達とWEBコミュニケーションが必需になったということだけどね。世界中のタイポもハードディスクあるいはクラウド上から使えるようになった。でも、考えるのは人間だからね。原さんたち先達がやってこられた世界が、いま超えられているかどうかというと微妙なところがあるね。若いマックデザイナーたちは、原さんたちがやってこられた仕事の意味と苦闘を、そしてその表現の斬新さと必然を、じっくりと学んだほうがいいと思うね。 

 

 

 

天才肌/大平シロー(元漫才師)/55歳

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大平シローさん急死…波乱万丈の人生に幕

サンケイスポーツ 2月10日(金)7時51分配信

 漫才コンビ、太平サブロー・シローで漫才ブームの立役者として人気を博したお笑いタレントで、放送作家の大平シロー(本名・伊東博)さんが9日午後2時32分、大阪市中央区の大阪医療センターで死去した。55歳だった。関係者によると、4日に大阪市内で倒れて緊急入院し、意識不明の状態が続いていた。コンビ解散、選挙落選、吉本興業に出戻り…。波瀾万丈の人生に幕を下ろした。


 シローさんは4日昼、大阪市内の自身の個人事務所で倒れたという。所属のよしもとクリエイティブ・エージェンシーや関係者によると、一時心肺が停止して緊急搬送された。

 蘇生措置で一命は取り留めたものの、意識不明で自発呼吸ができない状態が続き、難治性心室細動と診断を受けた。そのまま意識は戻らず両親ら親族に看取られ、9日午後2時32分に息を引き取った。葬儀・告別式は近親者のみで営まれる。

 元相方の大平サブロー(55)はこの日、大阪・なんばグランド花月で番組収録のけいこ後に訃報を知らされた。所属事務所を通じ「僕が世に出ることができたのも、サブローシローというコンビがあったおかげ。最近どうしているんだろうと思っていただけに、大変ショックを受けています」とコメントした。

 シローさんは高校2年で松竹芸能の養成所に入り、漫才トリオ、レツゴー三匹に師事。サブローと太平サブロー・シローを結成し、1976年にデビューした。その後一時解散したが、再結成して吉本に移籍。やすしきよしの西川きよし(65)役など、豊かな表情を生かしたテンポの良いものまね漫才で、80年代の漫才ブームに乗り一世を風靡した。フジテレビ系「オレたちひょうきん族」などテレビ番組に多数出演した。

 86年に上方漫才大賞を受賞するなど順風満帆だったが、88年に2人そろって吉本を飛び出してからは人生が急転した。東京に進出したが、失踪騒動などで92年にコンビを解消、同年の参院選に出馬するも落選した。その後、芸能活動を休止し、テレビから姿を消した。

 表舞台から遠ざかったが、97年から放送作家として本名の「伊東博」名義で関西テレビ「紳助の人間マンダラ」の構成を担当。98年には10年ぶりにタレント活動も再開させた。元タレントの島田紳助さん(55)が才能を惜しみ、吉本に後押したといわれる。

 最近は俳優や放送作家として活動し、大平かつみ(48)ら弟子を抱え、大阪市内で焼酎バーなどを経営するなど多方面で活躍。私生活では84年にミス日本準ミスに選ばれた元モデルと結婚したが、翌年離婚。こちらも波瀾万丈だった。

天才肌の芸人だった。
大平サブロー・シローとしてのデヴューは1976年であったが、80年代のマンザイブームの立役者の一人だった。「俺たちひょうきん族」はその絶頂期を 表現した番組であったが、マドンナやテレサ・テンの真似が定番だった。 物まねといえば、西川きよしなど、同業界の芸人の真似が抜群であった。
その後、コンビを解消したり、吉本脱退騒ぎを起こしたり、選挙にいきなり出馬したり、ミス日本と結婚しすぐ離婚したり、失踪騒ぎをおこしたりしたが2000年代はまた吉本に戻り、放送作家としても活躍していた。
とにかく天才肌芸人の一人であったが、まだまだ若い惜しまれる死だ・・・合掌!   

自由の継承/西村八知(文化学院理事長/90歳

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元文化学院校長の西村八知氏死去

産経新聞 2月10日(金)15時0分配信

 西村八知氏(にしむら・はっち=元文化学院校長)4日、悪性リンパ腫のため死去、90歳。葬儀は近親者のみで済ませた。喪主は長女、風間(かざま)みなみさん。

 文化学院の創立者、故西村伊作氏の三男。長野県軽井沢町の「ルヴァン美術館」館長も務めた。八知と書いてはっちと読む。みなしごハッチみたいでいい。 自由人を貫いた西村伊作氏の三男である。
長女である西村マヤの後をついで文化学院の校長となり、文化学院の校舎を移築した軽井沢のルヴァン美術館の館長でもあった。
文化学院といえば、もともと自由人の西村伊作が与謝野夫妻、菊池寛など多くの大正時代の文化人の協力を得て創られた「ユートピア」のような学校である。
「学校令」に拠らない「自由・独創」をなによりも尊ぶ学校であり、戦時下には強制閉鎖され伊作も公安に拘束された。

日本ではじめての男女平等教育でも知られている。
西村伊作は、日本で独特のモダニズムを見につけた建築家でもあるが、家族を愛した人であった。
学校を創った動機も、自分の子どもたちを入れる学校がないというものだった。
建物だけではなく、子どもたちの机や洋服までもデザインしている。
文化学院もスタートから制服はなく子どもは洋装であり、オシャレな学校として周囲からは羨望された。
西村伊作の展覧会に行ったとき、子だくさんの伊作の微笑ましい家族写真を何枚も見ることになった。
その家族写真なかに、まだ幼い西村アヤや西村八知が写っていたのである・・・合掌!

kimion20002000の関連レヴュー 「愉快な家展/西村伊作の建築」     
         

295日目「荒木経惟ー人・街ー(宮本三郎記念美術館)」自由が丘

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姪っ子メグ オジサンはもう目黒区に住んでどれぐらいになるの?
キミオン叔父 そうだなあ、30歳手前から、代官山、恵比寿に居を構えて、それから葉山の方で家を買って、前の相方と子どもはそこで育って、オジサンも時々はそこから東京に通ったりして。35歳の頃かなあ、洗足と西小山の間あたりにアパート借りて、それから目黒生活だね。大岡山に今の家を建てて、もう十二三年になる。だから、もう20数年か。
結構、長いのね。先日目黒区美術館に行ったじゃない。『メグロアドレス・・・都会に生きる作家・・・』。 ここでは目黒区に関わりのある若いアーティスト6組を取り上げていたね。
1970年代生まれの連中ね。目黒は住宅地のイメージが強いけど、中目黒や自由が丘はちょっと独自の発達をしているね。で、最近では目黒通りのインテリアショップが充実してきて面白い。目黒駅からずいぶん歩くのにね、週末なんかはぶらぶら歩きの若いカップルが多くてさ。
また武蔵小山は独特よねぇ。商店街が長くて。このデフレの時代に、どうやってお店が生き延びていこうとしているのか、生きた教科書みたいなものね(笑)。でもまあ、100円ショップやチェーンショップが多くなりすぎて、寂しくはあるけどね。
それも仕方ないけどさ。昔からの商店街の人たちも頑張っているところはあるからね。

世田谷美術館はまだ改装中だから、弦巻の向井潤吉アトリエ館と成城の清川泰次記念ギャラリーとここ奥沢の宮本三郎記念美術館の三つの分室で、本館所蔵物を使ってのミニ企画展が続いている。
ここは荒木のぶよし、アラーキーの作品展だ。先日までやってたのが第1期で『きっちんとマー坊』(63)『中年女』(65年)『銀座』(67年)『東京ラッキーホール』(83年)『TOKYO NUDE』(88年)から。これはアラーキーが独特の「人」の切り取り方をした作品群だね。今回からは『地下鉄』(66年)、『動物園』(66年)、『東京物語』(88年)、『冬へ』(90年)、『東京日和』(92年)のそれぞれ有名な作品集から。どちらかというと「街」に焦点をあてた作品群。
アラーキーの作品集は単行本で400冊ぐらい出てるらしい。でもこの60年代から90年代だけど、アラーキーは1940年三ノ輪生まれだけど、63年に千葉大工学部写真印刷工芸科を卒業した後、電通にカメラマンとして入社するのね。72年に退社するわけだけど、彼は社内の設備を使いながら、仕事外の時間かどうかしらないけど自分の写真をどんどん撮りためるのね。そして私家版としてスクラップブックにする。今回は手にとっては見ることが出来なかったけど、ここにアラーキーの原点がある。『地下鉄』と『動物園』がそうね。
時代的にも、今と違って荒々しかったし、ある意味ではおおらかだったんじゃないかな。篠山さんもこのあたりに同じように写真を取り捲っているけど、この二人はやっぱりすごいね。
『東京日和』あたりは、奥さんの陽子さんがお亡くなりになって、アラーキーがひとりで歩いてヨーコを思い出しながら撮り続けた作品よね。どこか空虚な感じで。カメラはライカ、フィルムはコニカクローム。
先日の「メグロアドレス」の企画展でも街をたんたんと写真で記録していくという手法はもちろんあるわけで、最近はビデオアートと組み合わされる作品が普通だ。それはそれで、作家たちのメッセージ性はあるんだけど、いいも悪いもアラーキーのような独特の個の刹那さみたいなものは感じないな。綺麗にまとめられているんだけどね、で美術館のキュレーターなどに独特の解釈をされるんだけどさ、でもアラーキーがスクラップブックに自ら会社の設備をちょろまかして焼き付けた印画紙を延々と貼り付けるみたいな執念はない。
それは時代性なのかもしれないよ。この小さな展示館でもたまたま学芸員のお兄ちゃんが数人の観客のために解説をしてくれたね。なんか草食系の大人しくて真面目そうな学芸員。もちろんお話すれば、アラーキーの研究もちゃんとやっておられるんでしょうけど、でもあまりにその世界と違う感じでなんか可笑しくなっちゃって。




 


サラブレッドの歌姫/ホイットニー・ヒューストン(歌手)/48歳

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ホイットニー死去 ドラッグ、アル中、DVと闘った世界的歌姫

デイリースポーツ 2月12日(日)15時37分配信

 「オールウェイズ・ラブ・ユー」など数多くのヒット曲を出し、米音楽界最高の栄誉、グラミー賞を6回受賞した米女性人気歌手のホイットニー・ヒューストンさんが11日、死去した。48歳だった。ロサンゼルス近郊の高級住宅地ビバリーヒルズのホテルの客室で死亡しているのを11日、警察当局が確認した。死因は不明。

 CNNなど米メディアによると、12日の第54回グラミー賞の発表・授賞式に出席するためロサンゼルスに滞在しており、11日夜はグラミー賞のパーティーに出席するとみられていた。

 滞在していたビバリー・ヒルトン・ホテルから911(日本での119番)通報があったのは11日午後3時43分。3時55分、死亡が確認されたという。広報担当者によるとホイットニーさんのボディーガードが遺体を発見したという。

 ドラッグ(薬)にアルコール依存症、前夫ボビー・ブラウンからのDV…さまざまなものと闘い続けた世界的な歌姫が48歳の若さで逝った。

 ホイットニーさんは2000年にはハワイで大麻を所持しているのが見つかり、訴追され、薬物依存症患者の更生施設に入った。02年には米テレビにコカインなどの薬物やアルコールの依存症に苦しんでいることを告白。04年には更生施設に入り、昨年5月には再びドラッグとアルコール依存症の治療のためリハビリ(更生)施設に入ったと伝えられていた。

 03年には夫(当時)のボビーがホイットニーさんの顔を殴り頬や唇に裂傷を負わせた暴行容疑で逮捕、起訴された。ボビーはそれまでも麻薬所持や交通違反で数回逮捕されており、06年にホイットニーさんが離婚を申請。07年に離婚が成立するなど、トラブル続きの結婚生活でもあった。

 ホイットニーさんは米ニュージャージー州生まれ。歌手ディオンヌ・ワーウィックはいとこ。子どものころから教会で歌い始め、10代からモデルとしても活躍した。1985年に「そよ風の贈りもの」で歌手デビュー。よく通る高音の歌声が人気を集め、「すべてをあなたに」などヒット曲を連発した。

 アルバムやシングル、ビデオを合わせた売り上げは1億7千万枚に上る。

日本人にとっても、マイケルジャクソンの死と同じぐらいのショックがあったかもしれない。
デヴューは1985年『ホイットニー・ヒューストン』のアルバムだが、当然のように大ヒットした。
アレサ・フランクリンが名付け親で生母、ディオンヌ・ワーウィックがいとこ、母シシーもプレスリーのバックコーラスをつとめている。
11歳で聖歌隊のソリストにもなっており、栄光は約束されていたようなものだ。
美貌に恵まれた彼女はファッションモデルでもあったが、87年二枚目のアルバム『ホイットニー』はビツボード初登場一位で女性歌手としてははじめての記録である。
そして92年、ケビン・コスナーとの共演で『ボディガード』、主題歌の入った『オールウェイズ・ラブ・ユー』 は、4200万枚を売り上げている。
前年のスーパーボウルでの彼女の国歌斉唱はいまでも語り草だ。
2000年に大麻所持で捕まっってからはとくにつらい時期が続いたが、2010年には東京公演を皮切りにワールドツアーで復活したかと思われたが、あの強靭な喉も枯れ気味になることがあったとも聞く。
葬儀に、亭主のR&Bのボビー・ブラウンが駆けつけるかどうかはわからないが、本人への周囲の視線は厳しく、針のむしろかもしれない。
彼の暴力沙汰などで夫婦関係も醒め切っていたからだ。
しかし、ボビー・ブラウンだって、90年ごろは大人気だった。
88年のアルバムは1000万枚を記録して、日本でもその髪型や服装を真似る「ボビ男」がたくさん出たほどだ。
つまり人気者同士の絶頂期の結婚だったのだ。
だが、多くの芸能の天才たちがそうであるように、残念だが絶頂はそんなに長くは続かないのである・・・合掌!
 

無類の学生横綱/田子の浦親方(元久島海)/46歳

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田子ノ浦親方が吐血、死去…まだ46歳

日刊スポーツ 2月13日(月)21時16分配信

  史上初の高校生アマ横綱となった、元前頭久島海の田子ノ浦親方(本名久嶋啓太=くしま・けいた)が13日、都内の部屋で吐血して倒れ、搬送先の病院で亡くなった。46歳だった。03年には急性心筋梗塞(こうそく)で倒れたことがあったが、11日の花相撲にも姿を見せていた。  1965年(昭40)8月6日、和歌山県新宮市生まれ。14歳から相撲を始め、新宮高入学時は3年連続で高校横綱となった。83年の全日本選手権で史上初めて高校生でアマ横綱に。日大では1年で学生とアマ横綱2冠など、4年間で今も最多の28タイトルを獲得した。
 名門出羽海部屋に入門し、88年初場所で初土俵。89年春場所の新十両を機に本名から久島海に改名した。金星2個、敢闘賞を2回獲得も、最高位は東前頭筆頭。98年九州場所後に引退。準年寄をへて99年11月に年寄田子ノ浦を襲名。00年2月に出羽海部屋から独立して、田子ノ浦部屋を再興し、昨年名古屋場所で部屋第1号関取碧山が誕生したばかりだった。

学生時代の無類の強さは、歴代でも一番かもしれない。
久嶋啓太。高校三年間チャンピオン。それだけではない。
高校生でありながら大学生や社会人を相手にして、全日本選手権では優勝している。
大学は日大に進んだが、ここでもタイトル総なめ。
そして本人は教員志望でもあったらしいが、鳴り物入りで出羽海部屋に入った。 僕は小さい頃から父の関係で、地方巡業のとき関取衆に遊んでもらった。
出羽一門である。なんとなく、その後も出羽一門の力士に愛着を覚えたりするのもそれが影響している。 新十両時代に久島海に改名したが、結局は東前頭筆頭止まり。
この人の場合は、ピークは学生時代にあったのだろう。
相撲界もいろいろ大揺れになったが、ガチンコ相撲で有名だった 久島海は、改革運動の筆頭に目せられてもいた。
僕はこの人が『おとなの週末』にコーナーを持って、おつなレシピを披露しているのが大好きだった。
田子の浦部屋も第1号関取が誕生して、まさにこれからという時だったのに・・・・合掌!   

おばちゃん/三崎千恵子(女優)/90歳

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三崎千恵子さん死去=「男はつらいよ」のおばちゃん役

時事通信 2月14日(火)12時45分配信

 映画「男はつらいよ」の「おばちゃん」役で知られた女優の三崎千恵子(みさき・ちえこ、本名宮阪トシ=みやさか・とし)さんが13日午後7時15分、老衰のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。90歳だった。東京都出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長女柴順子(しば・じゅんこ)さん。
 劇団民芸などを経てフリーに。渥美清さん主演の「男はつらいよ」シリーズ全48作で、口やかましいが心優しく主人公の車寅次郎を見守るおば役を好演した。他にも「銀座の恋の物語」「霧の旗」「同胞」「ガラスのうさぎ」など多彩なジャンルの映画作品に出演。演劇やテレビでも活躍し、代表作に舞台「アンネの日記」、ドラマ「パパと呼ばないで」など。昨年公開されたドキュメンタリー映画「ムーランルージュの青春」が最後の出演作となった。 

やっぱりこの人は、『男はつらいよ』 の寅さんのおばちゃん車つね役である。
1969年スタートの時は50歳前だった。
おいちゃんの車竜造は、森川信、松村達雄、下條正巳と変わっているが、おばちゃんはさくらの夫の博士を演じた前田吟や、タコ社長を演じた太宰久雄と同じく
全シリーズを勤めている。
ちなみに御前さまの笠智衆は45作まで、寺男源公の佐藤蛾次郎は、惜しいことに第八作だけ出ていない。

『渡る世間は鬼ばかり』では小料理屋の女将役が存在感があった。
居酒屋チェーンが好きではない僕は、いつも三崎千恵子がカウンターにいるような店をこの何十年も無意識に探していたんだなあ、と改めて思ってしまう・・・合掌!
   

体内チップ(自動投薬の便利さは福音ではあるのだが度80点)

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体内にチップ、自動で投薬 米チーム成功、注射不要に

写真:患者の体内に埋め込まれ、薬を放出するマイクロチップ(右)。USBメモリー(左)と同じぐらいの大きさの容器に入っている=米マイクロチップス社提供拡大患者の体内に埋め込まれ、薬を放出するマイクロチップ(右)。USBメモリー(左)と同じぐらいの大きさの容器に入っている=米マイクロチップス社提供

 

 自動的に薬を放出するマイクロチップを体内に埋め込み、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)患者に安全な治療をすることに米ハーバード大などの研究チームが成功した。16日付の米医学誌サイエンス・トランスレーショナル・メディシン電子版で発表した。注射が不要になり、患者の生活の質を重視したがん治療などへの応用も期待される。

 このチップ(13ミリ×5ミリ)は、一種の小型コンピューター。外部からの無線通信か内部のプログラムの指示でチップの穴から薬を体内に放出する機能を持つ。今回は骨粗鬆症の治療に応用し、骨を作る働きを活発にする注射薬テリパラチド20日分を1日分ずつ放出できるように工夫。複数のチップがUSBメモリーほどの大きさの容器に入れてある。

 65〜70歳の女性患者7人の腰回りに埋め込み、様子をみたところ、薬は想定通り放出され、副作用もみられなかった。注射と同様に骨を作る働きを活発にする働きがみられたという。

まあ、たしかに昔から予想されていた技術進歩だし、マイクロロボットが体内に入り込んで「戦い」を展開する時代なのだから、驚くにはあたらない。
もちろん、こうした技術が暴走し、悪用を考えればどれだけでも考えつく。
僕が毎日飲むことを強要されているのは、血圧降下剤だ。もう二年ほどになり、いつも1か月分ぐらいの薬をもらうのだが、規定量を消化するのは3ヶ月ぐらいで、先生からいつも睨まれる。
先生からすれば、こういうたちの悪い患者には、自動投薬チップを埋め込んでしまったほうが安心できるだろう。
もちろん、このチップだってなにかの加減で故障するかもしれない。
患者ないし病院の側に、その異常を瞬時になんらかの信号でモニタリングしておけるようになっているのだろうか。
どちらにしても、医療技術の進歩は限りがない。
再生技術でもなんでもいいのだが、後から「これが過ちの第一歩だったのね」と回顧するようなことだけは避けたいものだ。 

 

 

 

第九十二話

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昔の会社の仲間が合宿のようなことをしている。
私にもなにかの役割があるらしくて、忙しそうにスタッフが私の書類をコピーしたり、製本したりしている。
なぜ、私が、いまごろこんな場所にいるのかわからない。
そのうち、経営会議がはじまるとお呼びがかかる。
私は関係ないから、と断るのだが、会議室に連れて行かれる。
数字をあれやこれや質問をされるのだが、なぜ私が答えなければならないのかわからない。
私は、書類をデスクに撒き散らして、その場をあとにする。
部屋を出ると、何人か昔の部下が寄ってくる。
何十年かぶりに麻雀でもするか、と誘うとみな困ったような顔をしている。

図版: 鬼熊

 

 

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