姪っ子メグ 芥川賞受賞の記者会見での田中慎弥さんの不機嫌ぶりが面白かったわねぇ。キミオン叔父 シャーリー・マックレーンの言葉を引用して、「まあ四度も落とされたけど、もらっといてやるか」とかね。「こんな会見早く終わりましょうや」とかね。もうひとりの受賞者が苦笑していたけど、文藝春秋の進行担当者は、はらはらしたのかな。
でもこの「不機嫌」がおおきく取り上げられたおかげで、『共喰い』の初版部数が膨らんだみたいで、拍手してるんじゃないの(笑)
「こんな馬鹿馬鹿しい小説を読まされるのにつきあう体力はないから、もう俺は降りるよ」みたいなことを言った石原慎太郎へのあてつけがあるようだけど。でもこの人は山口生まれで、4歳で父を亡くして、その後母と二人住まい。20歳ごろから書き始めて、30歳でデヴュー。その間、アルバイトもいっさいせずに、一日も執筆を欠かしたことはなかった、という伝説の持ち主。
ついでに、必要がないから、PCも携帯も持っていない、という伝説。あたしまだだけど、おじさん読んだの?
文庫になっている『切れた鎖』だけね。究極のひきこもりのような位置から、妄想がどんどん膨らんで、小説の形式まで壊していくような特異な「私小説」といえるかな。でもこの数年間の評価は凄いよ。05年の「冷たい水の羊」で新潮新人賞、08年に「蛹」で川端康成文学賞を最年少受賞、作品集『切れた鎖』で三島由紀夫賞、そして五度目のノミネートだったけど、ついに芥川賞。まあ、でもやはり興味あるのは、デヴューまでひたすらこもっての十年間のことだね。
でも、「文士」っていろんな変わり者がいて当たり前だと思うから、いいんじゃないかな田中慎弥。
「文士」といえば、文士のスナップ写真の第一人者とされた林忠彦の「紫煙と文士たち展」が、たばこと塩の博物館で。林忠彦も田中慎弥と同じ山口の写真館の長男坊。戦前は報道写真家だったけど、1946年に織田作之助を銀座のバーの「ルパン」の狭いカウンターで撮ったんだけど、それが「文士」ポートレートのはじまりかな。そのあと、あまりにも有名な太宰治の同じ「ルパン」でスツールにあぐらをかいた太宰治、それから坂口安吾の仕事場でのギョロっとした風貌、もうそれからは文士ポートレートといえば、林忠彦ということになった。
今は違うんでしょうけど、この半世紀をとってみても「文士」に煙草はつきものよねぇ。ほとんどは両切りのピースみたいだったけど。中にはホープやしんせいや外国煙草もあるけど。
戦後の「無頼派」がスタートだったけど、そのなかで一番見入ってしまったのは、田中英光。180cmを超える大男で早稲田在学中にロスオリンピックのボート選手で出場。それが『オリンポスの果実』という名作になった。太宰に心酔して弟子入りしたけど、太宰の入水自殺にショックを受ける。で、睡眠薬中毒になり、暴飲をするようにもなり、彼からのリクエストで太宰と同じようにバーを舞台に林忠彦は写真を撮った。そのすぐあとに、太宰治の墓前で、手首を切って自殺。林忠彦はその後、バーでポートレートを撮るのはやめることにしたらしい。
今回は何冊かの写真集から「紫煙の文士」をピックアップしているけど、その「文士」とのエピソードがとても面白い。そうよね、スタジオで撮るわけじゃないんだから、やっぱりその人とのつきあいね。長い時間をかけて、ようやく撮れた一枚もあるだろうし、一期一会で勝負して撮ったものもあるだろうし。ほとんどの人とは、人生のつきあいをしている。もちろん、日本の写真界の超重鎮だけど、撮り始めたころは若いものね。どこかで気難しそうな文士たちに愛されるような資質があったんでしょうね。
今回は60人ぐらいの錚々たる文士だけど、やっぱりその写真を見ながら、その横の資料プレートで何歳で没した人なのかをついつい見ちゃうんだ。ああ、俺はもうこの人の年を越えちゃったのか、と(笑)。
林忠彦の最後の仕事は『東海道』。癌を患っておられて半身不随になっていたのね。で四男の林義勝と共同して、写真集に編み上げた。1990年、林忠彦の個展のオープニングセミナーで倒れて、お亡くなりになった。今回の文士たちのなかの大半はすでに亡くなっておられる。あちらの世界でも、たぶん紫煙をくゆらせている文士たちに、やあと言ってお会いされるのかしら。この頃は、なかなか、紫煙をくゆらせる場所なんてないんですよって、苦笑されながら。